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50年ぶりに出身校を訪れる
川越高校は後に後輩が「ウォーターボーイズ」(男子シンクロナイズドスイミング)などというおかしな運動部を作って、その活動が注目を集めたので記憶されている方も居られるかと思うが、美脚じゃなく毛脛を出して何がシンクロ・・・? と馬鹿にしていたら、映画化&テレビドラマ化されたりで他の高校にも波及して、思わぬことで名を馳せたものです。われわれの頃は男声合唱全国一位なんてのがありました。公式野球は大昔にはそこそこ強かったとかで紹介はいつも「古豪川越」でした。 <上級生によるシゴキ・焼き入れ&強制入部> その応援練習がやっかいで、試合が近づくと上級生の命令で隣接の「市営・初雁球場」に集められ、応援団のややこしい振り付けに遭わせて手拍子声出し校歌&応援歌の練習・・・声が小さいと怒鳴られ、時にはビンタも飛ぶ! 応援練習が終われば、運動部員はそのまま各部活へ・・・それ以外は残される。運動部に入ってないとそこからシゴキ直し、そして強引にどこかの運動部に入る約束をさせられる。その場しのぎの約束をして、実際には行かない。 すると別の日の放課後、この写真の門の所に運動部員の番人が立ってチェックをする。関所だ。学年と名前を確かめられ「お前はバレー部に入ったんだろうが!」と部室につれこまれ、暴力的に運動着に着替えさせられる。一年生は、このゲシュタポかマカロニウエスタンの悪党組みたいな上級生に脅され続ける日々なのだ。 こうした新入生焼き入れ(ある意味単純なイジメ)は毎日昼休みに教室で弁当を食べている所に数人がグループでやって来て行われた。昼食時ゆえ教員の目が届かない。というより教員は見て見ぬ振り。 今日は服装チェック、「全員弁当を仕舞い学帽をかぶれ!」「そこのお前、何だそのカッコつけた学帽は?白線をわざと汚してるだろう!」リーダー格は手に竹刀・・・「部活はどこだ?柔道部?部長の名前を言ってみろ!」「××先輩です。」「そうか・・明日までに新しいのに換えとけ!」運動部に所属してると手加減する。入ってないとこの場合はまずビンタ間違い無し。 これでは、弁当もろくに食べられないので2時間目には皆弁当を食べてしまい休み時間は外に避難することになる。雨の日に図書館に入れなかった連中が体育館でたむろしているとヤツラがやって来た。まるでイワシの群れと肉食魚、あるいはトムソンガゼルとライオンのような様相。新入生はすきを見て左右の扉から逃げちらかる。 <それでもめげずに部活をサボル> それでも、むりやり在籍させられた部活をサボッて逃げ帰るのだが、何しろ、高校は川越城跡そのものなので一方は掘りだったりして脱出が難しい。他の箇所は民家の塀に囲まれている。その民家の塀の隙間からカバンを外に蹴り出しておく。そしていざ校門へ・・・ 「オイ、お前ら。帰るのか、部活はどうした!」 「購買に買い物です。」(旨い具合に当時は購買は塀の外にあった。) 張り番の上級生も、我々がカバンを持ってないので信用するしかない。 「よし、通れ!さっさと済ますんだぞ・・」 ゆっくり校門を通過し、角を曲がるや脱兎のごとくさっき蹴り出したカバンを拾いに行くのだった。 このクスの木はそんな日々の全てを知っている。先生は学生のやることにはほとんどタッチしない。校則には「丸刈り」の規程はないが3年になるまで髪は伸ばせない。上級生が決めてることが校則に優先するのだ。じゃあ〜髪を伸ばせば良いようなものだが、部室に連れ込まれてボコボコにされるのは目に見えている。教員が三年生に「いいじゃないか、自由じゃないか・・・」とへっぴり腰で犬の遠吠えみたいに文句を言ってるのを聞いて、下級生は誰もが丸刈りで我慢するしかなかったのだ。 <高校に女性はたった3人> 高校には女性は3人しかいなかった。先生は全員男、たぶんナメられるからだと思う。化学の実験助手に時々一人だけ大学生のような女性が来ていた。他には保健室に一人と会計窓口に一人。この会計の女性が大の男子学生嫌い(確かに皆汚かったが・・)で、全く姿を見せない。月謝(当時は現金を封筒に入れて窓口に納めていた。)の時も、馬券売り場みたいに小さな穴から手先がちょろっと出て来て、月謝封筒を引き込みバタンと判を押すだけ。声もない。 保健婦も冷酷で、私が指を脱臼した時も「これで医者に行け!」と、何年も雨ざらしになっていて漕ぐたびにジャリンジョリンとチェーンが何処かにひっかかるサビた自転車を貸してくれただけだった。これで片手運転で痛い右手をダランと提げて医者まで行った。「まあまあ痛いですよネ?すぐに処置しますからネ・・・」という何でも無い看護婦さんの常套句が、天使かマリヤの声に思えた。 <自己責任を悟る・・・> これは、愚痴を書いているのではない。社会に出ればこの突き放された環境が当たり前なんだと言うことを居ながらにして教える高校だったと思っている。 入学時に担任だか校長だか忘れたが「私たち教師は、君たちが上の教育システム(大学のこと)に進めようが進めまいが痛くも痒くもない。」「人間、喰って行くには色んな道がある。自分で選んで自分で掴みなさい。」と言い放った。父兄の何人かは後で抗議に行ったと聞いたが、私は別に腹も立たなかった。聞けば友人たちも憤慨している者は居なかった。 「そうだ、これが当たり前なんだ・・・今日からは自己責任。」このことを皆、あの言葉で覚悟出来たと言っていた。そう、大人の入り口のような気がした。 本当に先生は必要以上に生徒に係わらない。「君子危うきに近寄らず」で部室棟に足を踏み入れる先生は見たことが無かった。従って、部室棟は治外法権の無法地帯。タバコ・エロ本・暴力なんでもあり、これも社会に出たら特別なことでもない訳で。そうした中で悪しきことに必要以上に染まらず、かつ、サバイバルできるための訓練の場所だったのかも知れないと今は思う。 驚いたことに、いつも我々をシゴくキツネ目のイケ好かない先輩が、張り出された英語の成績順位表(当時は個人情報もへったくれも無かった。)で学年10位だった。上位20人くらいは東大・京大・一橋をねらえる高校でだ・・「えっ〜あいつが!人は見かけ寄らない。いや寄らな過ぎる〜」そうか、やるときゃやるんだ先輩たちは・・・ <教員たちの個性的な授業スタンス> 先生も全く生徒を甘やかさない。それどころか、教室の入り口で「ちぇっ、今日もバカを相手に授業か・・・」なんてホザキながら入って来る。 そのくせ授業進行はきっちりしていて、ちょっとでも勝手な先走ったやり方でもしようものなら、「なんで、そんな都合のいい公式が使えるのか前へ出て黒板で証明しろ!」と怒りをあらわにする。公式の証明は厄介でむずかしい・・・黒板の前で訳の判らぬ数字を列べて立ち往生してるその生徒に「消せ・・消せ・・」と蝿を追い払う様な小馬鹿にした手つきで退却させ、「聞きかじった事で世の中を渡るようなことを君たちの若さでするな!恥知らず!」 オレの教える通り順を追って学べば、ちゃんと出来る様になるんだから・・・という自負があったようだ。 真夏の教壇で「諸君、今日は暑いね、ちょっと失礼・・」とシャツとステテコになっちゃう年配の先生も居た。そんな時は我々も自由が許された。皆上半身裸で授業。この先生の住まいは高校の近くで、同じ町内に住む級友は銭湯で遭うといつも背中を流させられると言ってた。かと思えば、次の授業は厳格な先生だったりして皆あわてて正装した。 大学出たての新人の先生は生徒にいじめられる。アカハラの逆だ。「声に覇気がないから後ろまで聞こえない。ちゃんと月謝払ってんだ!しっかりやってくれ。文字が小さいし黒板の両端が光って見えないことくらいプロなんだから知っとけ。」その新人の先生が「次の文章を読むように・・・」と生徒を指したら、声を割っている弁論部の学生だったものだから教室の窓ガラスがビビるほどのがなり声で読み上げる。皆、わざと「やかましい!止めさせろ〜」とか言って大げさに両耳を押さえた。「変わります!」と挙手した生徒が応援部員の学生でさらに大きな声・・・そんなこんなで職員室でベソをかいた先生もいて、担任がやって来て、「優しくしてあげてくれる?」って、半分笑い顔で協力要請、学生一同「よっしゃよっしゃ・・」(笑) 勿論逆もあった。自分たちが3年生になり晴れて坊主頭から開放され好き勝手な髪型にして来るようになったある日。漢文の授業で当てられた生徒が、アンチャコに教科書の表紙をつけて和訳を読み上げているのがバレて「イイからちょっと前へ来い!ほ〜頭キレイじゃないか中身はいいかげんでも・・・どれどれ、もっとキレイにしてやろう・・」と整髪料でバッチリ格好を整えているその生徒の頭を黒板拭きでなぞった。その生徒は悪事がバレタ負い目もあり無抵抗。チョークの粉で頭はみるみるロマンスグレーに・・・ちょっと可哀想だったが笑えた。(今だとアカハラになるかも知れない。) <汗と泪のしみた運動場> この樹木とトイレは昔のままだ。両側の建物はまだ無かった。当時の運動部では全国的にも恐らくそうだったと思うが「水を飲むとバテるから飲むな!」が常識、よくぞ熱中症にならなかったものだ。やっぱり夏の最高気温が違うのか? それでも、水を飲みたい。「トイレ行ってきます・・」と言いながらここで水を飲んでいた。 部活をサボると、後に運動障害を誘発すると禁止された「うさぎ跳び」の懲罰が一日に付きコート10周とかで果たされるのだが、それがどんどん溜まって300周とか400周とかに膨れ上がり、返済不可能なサラ金地獄状態に陥るのだった。 グラウンドは写真に写っている2倍はあった。体育の先生は全てが軍隊式で、授業に入る前に輪番で決められた連絡係が職員室のその体育の教師のデスクに行き、帽子を左手にして「気を付け!」の姿勢で「何年何組何のタレべい。何時間目の体育の授業連絡に参りました。」と言って指導を待つのだが、これが他の教員の前でカッコ悪いのだ。教員たちは皆、息をころしてクスクス笑っていた。いつもいじめられている新人教員がニヤニヤしてるのがムカつくのだった。 <名物運動会と狂気の騎馬戦> この運動場で繰り広げられる運動会は圧巻だった。特に仮装行列は地元の人たちも観に来て大いに盛り上がる。全身を真っ黒に塗って顔や身体に派手な模様を描き鑓を持ち、アフリカ原住民に化けた生徒が教室から次々と飛び出して来ると、そのド迫力に地元の子供達は本気で泣き叫び逃げまどった。かと思えば今は死語以下になった「アルサロの女」などと言うスケスケルックで、校長先生の座るテントの前で艶かしく?腰をひねってのキモイ踊りだったりだ。 さらには、全校挙げての騎馬戦は壮絶だった。上級生に唯一合法的暴力で仕返しの出来るチャンス。はじめから誰をやるかを照準を合わせ作戦を練って襲いかかる。猛烈な砂塵の中、騎馬は倒され重なり合っての殴り合い蹴り合い。訳の判らないまま「バ〜ン」と言うピストルが・・・勝負あったの合図と言うより、「止め!それまで!」の合図に近く勝ち負けはどうでもイイ、鼻血を流してビッコを引きながらの退場だ。 <文武両道> 川越高校は川越城そのものだったので、柔道・剣道・弓道の部活&授業はここ「武徳殿」で行われた。現在は「本丸御殿」などというチャラけた名前で観光名所になっている。建物もかなり修復され、あれっここだったかな?一瞬戸惑う程だった。なんと入るのに入館料が必要だった。 現在は部屋ごとに仕切りがあるが、「武徳殿」として川越高校が使っていた時は一部屋になっており、障子は無し。畳は柔道畳が入っていた。真冬に当然ながら素足だ。寒いと言うより痛かった。 そこで一人受け身というか、顔の前に両手の平を構えて自分が物体になってそのまま畳にバタンと倒れ込む。最初これをしばらくやらされた。たぶん埃出しではなかったのか? 寒さと衝撃で手の平は真っ赤だ。続いての下手どうしが投げ合う受け身がこれまた痛い。従って私の柔道の印象はひたすら「痛い」のみである。埃が立つので真冬であろうが窓は当然開けっ放しだ。 夏は水泳、プールも屋外市営プールが並びにあった。結構時代物で表面のコンクリートがザラザラに風化していた。ところが体育の時間の集合が遅いと言って、そのコンクリートに正座させられ説教を聞かされた。「よ〜し立て!」の合図でシビレながら立ち上がると、ザラザラコンクリートで向こうずねは「粟おこし」のようになっていた。ただ、何があろうが今の様に学校であったことを一々親に言いつけるようなカッコワルイことをする仲間はいなかった。 それに、級友に聞いた話だが部活をサボッて家に逃げ帰ったら、先輩が追っかけて来て家の者に「○○君は僕たち部員にとって、とても重要な存在です。今、一緒に頑張ってくれると皆がもっと高いレベルに行けます・・・」とビックリするような熱弁で美辞麗句を列べたとか。親は「タカシ、このバカが・・早く学校に戻りなさい!」と頭を叩いた・・・戻ったら「世話をやかせやがって!」とボコボコにされたらしい。 そう、川越高校の学生は外面が良くて、二本の白線の入った学生帽は世間には紳士の証しみたいな印象があるようだった。あの応援部にして本試合では「いいか・・紙吹雪は一つ残らず拾って帰れ!」翌日の新聞に川越高校は試合に負けたが統制のとれた応援と「飛ぶ鳥後を汚さず」の精神で応援には勝っていた。などどと賞賛されているのだから・・・ホントに如才ないと言うか?外面だけは整えるのだ。 <なつかしき町並み> <嗚呼・・小倉アイス!> あれ、何も変わってない。テーブルが少し違うかも知れない。奥で作業している店主も店のおばちゃんも結構な年だ。となるとあの当時から働いているのだろう。小倉アイス一つ250円となっているが、たしか当時は80円だったと思う。「小倉アイス、まだやってるんだ。一つ下さい。」「ええ、昔のままよ・・・小倉一丁!」 真冬だが、こいつを食べない訳には行かない。小豆に牛乳を加えシャーベット状に凍らせてある。量もたっぷり。思っていたよりネットリしていて全部食べるにはいささか苦労した。 この小倉アイスは高校時代は貨幣の代わりをしていた。他クラスで忘れ物をした者に教科書など貸す時に小倉1個が基本料金。体育のトレパンなどは2個だ。その他もろもろがこの小倉単位で取引。いやはやなつかしい限りだ。 街は予想外の賑わい。というか観光地化されていた。それもそのはず、蔵造り民家を売り物にする「小江戸川越」は都内から30分の絶好の立地条件。 私が高校生の頃は誰もこんな売り出し方は考えていなかった。なんだか重苦しい屋根の田舎街道、壁まで黒いし何とかならんのか?特産品はサツマイモ。そしてイモセンベイ。これがまた何とも田舎臭い。同じ公立高校の川越女子高校なんかイモ娘などと言われ・・・気の毒なことだった。しかし、この先の熊谷では「熊女」ですから・・これはこれで可哀想(笑) 熊谷女子高校は姉が、川越女子高校は妹が通った高校だ。 <気になる存在、川越女子校> 川越女子校と言えば、同じ街にある高校。何かと気になる存在だ。川越は一つの街に「川越駅」」「川越市駅」「本川越駅」と誠にややこしいが3つも駅がある。 私たちは「川越駅」から北へ徒歩で高校へ、女子校の一部の学生は「本川越駅」から南へ徒歩で女子校へ。すると町中で電車から下車した男女の高校生集団が一瞬交じり合いそしてまたそれぞれに分かれる訳だ。その時に手紙の交換やら何やら面白いことになる。 ある時、クラスの勇気あるヤツが何と女子高生つかまえて立ち話、(結構可愛い娘に見えたりなんかして・・・)後で何だ何だ・・・って聞いたら。「あの娘写真部で今度うちの写真部と合同撮影会に行くんだとか言ってた。オレ写真部に入る。」だと・・・ 私も写真部だったので「そうさ、来月に豊島園(年増園じゃない)に行くことになってる。来週打ち合わせで川女の生徒が5人くらい内に来る。」「えっ、オレも写真部に入れろ!」「カメラもないクセしてお前ら何言ってんだ・・」 その時だ、3年が怖い顔して割り込んで来て「オイ、お前。あとで応援部室へ来い!」 「・・・・」 「ヤバイ・・焼き入れだぜ」「大体お前がはしゃぎ過ぎなんだヨ〜」「あの先輩、モテね〜からやっかんでるんだ。」「ばか!それ言っちゃ〜殺されるぞ・・」 <写真部でさらなる笑える思い出が・・・> 写真家&カメラ収集家の田中長徳さんが著した「カメラ・悪魔の辞典」にも面白おかしく書かれていたが、高校生というのはとかく大人の真似をしたがるのだ。 私たち写真部も同じで、当時「ソラリゼーション」と言う写真技法が写真アートの世界で脚光をあびていた。やってみたいのだ・・・(白黒を反転させたネガと本来のものと重ねて少しずらして印画紙に像を焼き付けると面白い輪郭線やら光や影が出て来る。)技術的なことはさて置き。 そうした写真は曲線美を強調したいためかことごとくヌード写真なのだ。これは高校生にはハードルが高い。でもやってみたい。皆思いは同じ。 「部長〜 先輩、やりましょうヨ・・」「何でもいいから適当に撮ってやればいいが・・」「やっぱ、ヌードでしょう!」「お前が脱げ・・」「先輩、誤摩化さないで・・真剣に取り組めばいいんだから芸術なんだから。」「お前の姉さんだめか?」「張り飛ばされるワ!」「お袋は?」「家、追い出されるワ」 「先輩、いい人いる。化学実験助手の彼女にお願いしたら?」「誰がお願いを?」「やっぱ、部長でしょう。」「・・・・・・・・」「・・・・・・・・」 「判った。オレが行く」「さすが〜 これは芸術なんだから、アートなんだから、心を広くもって。」「オレが広く持っても、相手が・・・」「それなんだよな〜」 そして、部長は部室を出た。 しばらくして部室のドアーが開きうなだれた部長が・・・「やっぱ断られた?」「いや、無理ムリ・・言えねェ〜。言える訳ねぇ〜だろうが!」結局バイクの写真でやったがパーツが複雑過ぎて訳の判らないものになってしまった。 <蔵造りの町並み> 当時では考えられない人の波、こんなに蔵造りの店があったっけ? この黒い「亀屋」は昔から変わらない。今回もイモせんべいを土産に買って帰った。 川越駅から高校へは色んなルートがあったが、整備されたメイン通り以外はとにかく付き当たりだらけ、城下町なので敵が攻めて来た時に動きにくくなるよう都市計画がなされていると聞いた。裏通りには今と違って放し飼いの犬なども居た。仲間が犬に向かって 「こら!てめ〜 あちこちションベンするんじゃねぇ〜 ・・運動部入ってんのか?エ〜ッ」日頃の鬱憤を犬に向かって晴らしていたのを、情けなくまた可笑しく思い出す。 <パチンコ屋での出来事> このあと本川越駅の方に向かって歩いた。全く風景は変わってしまったが、ふと別な思い出がこみ上げて来た。 この近くにパチンコ屋があった。そう、文化祭が近づき日曜日も高校に出ていて、私服だったのでその帰りにパチンコやろうと仲間が言い出した。三人で寄り添って打っていると、仲間の一人が少し先の方で先生が打っているのを見つけてしまった。 「ヤバイ!出よう」ところが先生が先に動いた。「オイッこっちへくるぞ!」三人は身体を屈めて息をひそめていた。先生が背後を通過・・その時、背中の方からヌ〜と手が入って来たのだ。我々の台の受け皿にパチンコ玉をジャラジャラ・・と入れて去った。「ふぇ〜 先生、判ってたんだ・・・」 <大学受験が目前にせまる> 牧歌的な話から一転するが、三年生も第四コーナーを廻り受験が現実的に迫って来ると、その圧迫感と不安と期待の振幅の中で、些か精神状態が乱れて来る者もいたのだった。 ある朝、教室に入ると突然「農村における嫁と姑の軋轢について・・・」と言う突拍子もない場違いなテーマで、勝手な論説を教壇に立ってとうとうと喋り立てる者が現れたり。防衛大学に入りたいと言う希望からか、立ち居振る舞い歩き方までが北朝鮮の兵士のように硬直してしまった者が現れたりだ。まだセンター試験もない。偏差値も判らない。イチカバチかのバクチ的受験地獄時代、バンカラそうに見える男子校にも受験の重圧はのしかかり、私より遥かに成績の良いヤツが自信喪失で不登校になったりだった。あいつが自信喪失?だったらオレは危機感喪失者としか言いようが無い。 <終わりに> これまでの人生の中で男たちだけで過ごした特異な3年間。その青春は悲惨?な日々もあったが、日が経って思い起こせば珠玉の時間にも思えて来る。今のように人権侵害だイジメだアカハラだ・・・という意識が皆無の中、次々に押し寄せる理不尽を自らの身をよじりながらかわすしかない。その「よじり方」が可笑しいのだろう・・・カミサンには何度となくこの高校時代の話をしたが、その都度二人は目に泪して笑い転げたものだ。 先生と生徒はいつも「健康な悪意」に満ち満ちていて、それはちょっと乱暴な遊びでもあり、屈折した互いの絆でもあったと思う。入学時に「君たちが大学に進学出来ようが出来まいが、我々教師は痛くも痒くもない。」と言い放った教師だが、いざ受験が迫ると「とにかくお前らは一浪まで、二浪したらそこに待ち受けているのは団塊の世代、おまえらに太刀打ちできる相手ではないんだ。とにかく一浪まででどこかに潜り込め・・」と声をからして叫んでくれていたのだから・・・ ★いやはや、長時間お付き合い有り難うございました。
by nobrin-7
| 2012-02-29 13:02
| エッセー雑文
|
Comments(9)
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miimii
at 2012-02-29 20:47
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楽しい(?)高校生活の話・・・読ませていただきました。
時代ですねぇ~。今は通用しないことばかり(笑) 写真に懐かしさを感じたのは、 NHK朝ドラ「つばさ」の舞台だったんですよね。
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nobrin-7
at 2012-03-01 08:43
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「つばさ」・・・そうだったんですか
下の娘の産後の介助に東京に一ヶ月行ってまして、土日は開放されるのであちこち足を延ばしていました。MyBlog は時々、狂ったように長文を書いてしまうのですが、よくぞお付き合い頂きました。 風邪を引き熱が続いて何する術も無いので、書こう書こうと思っていた男子校実録を一挙に書いてしまいました。
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マンゴスキ
at 2012-03-02 00:02
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3年前と昨年の二度、坂戸に住む息子を訪ねた際、蔵の街を散策したときを思い出しました。レトロ調のバスに乗ると川越高校に差し掛かると「ウォーターボーイズ」のモデル校であることを紹介していましたよ。
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nobrin-7 at 2012-03-02 16:06
坂戸から高校に通っている仲間もおりましたので、この地名をなつかしく思います。
余談ですが、真夏に最高気温をよく記録するので有名な「熊谷」が川越の北にありますが、当時、熊谷高校とは交歓会などしておりまして、初めて熊谷高校を訪ねて度肝を抜かれたことがありました。なんと全員男下駄で校舎の中をガランガラン・・・「今日は特別な演出か?」と聞けば、「いやいつも普通に下駄だ。」の答えが。埼玉の男子校はスゴイ!ばんから文化のガラパゴスだったのです。
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ヤマダ
at 2014-02-12 17:34
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ブログ拝見しました。
元川高生の現大学生です。 私の在学中にはこんな荒々しい事は殆ど行われていませんでしたが、それでも1年生に対する応援始動や部活勧誘はあまり姿を変えていません。入学当時はビクビクしていましたが、今となってはいい思い出です。 大学に入ってからでも、あのむさ苦しい日々が懐かしくなりますね。先日高校の同級生と同窓会をしたんですが、やはり彼等はつらい日々を共に過ごした仲間なので意気投合、柔道や剣道の話で盛り上がり、強歩大会(秩父を延々歩きつづける)などで大笑いして酒が進みました。 また機会があれば言ってみたいものです。
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nobrin-7 at 2014-02-15 17:34
ヤマダさんへ
そうですネ・・・ 長い人生から思えばわずか3年間の男だけの特殊環境。いいも悪いも希少体験です。 後になると「ちょっと辛かった体験」と言うのは良いダシが出るようで、酒の肴にはもってこいです。本物のダシだって寒風にさらしたりして、しっかりいじめたものほど美味しくなる。ただし、戦争や震災体験とかになるとそうは行かない。 丁度いい塩梅のほろ苦さですか?
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ヤマダ
at 2014-04-10 23:24
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むしろ噛めば噛むほど味の出る昆布のような思い出です…!
私の代は震災で卒業式ができなかった唯一の代(111年目で初めて)らしく、教室の座席に座って校長先生や生徒会長の話を聞いたことをよく覚えています。とても悔しくて心残りだったので当時の友人たちに掛け合ってみたところ、卒業後10年(28歳)記念で卒業式を行うことになりました! 話は変わりますが、私も陶芸や小道具には興味があり、ふと思い出して久しぶりにブログを拝見させていただきました。美しい文章と写真にいつも驚かされております。 両親が陶芸をやっており、小さい頃からやれ萩焼だのやれ備前焼だの教育されて育ちました。現在使っている萩焼の湯のみ、かれこれ10年くらいでしょうか、、、もうかなりひび割れてきていい雰囲気に仕上がってきています。 私は春休みに引き続き、今年の夏休みにもヒッチハイクであちこち旅行に行くつもりなのですが、もしよろしければ一度お話伺えたらとても嬉しいです!
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nobrin-7 at 2014-04-11 09:17
震災で卒業式が出来なかったので10年後(28才)で卒業式を・・・
私なぞ、長い人生を振り返ると高校の卒業式なんて何も覚えていませんヨ あなた方は、災いも小さな福と転じてインパクトのある卒業式になりそうですネ 近くに来られる事があれば寄ってもらえば良いですヨ 岡山の夏は逃げ場のない暑さ覚悟で・・・でも埼玉の熊谷には負けるナ(笑) 「鍵コメント」でそちらのメールアドレスを入れてもらえば、こちらから返信しますのでこれにて双方が繋がります。
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at 2014-04-11 21:26
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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